火曜日, 7月 25, 2006

思想の自由のないところに、見たい画像を選べないところに、人間性の、創造の発展はない。いやな画像を見せられただけで、美を追求しようとは思わないものである。

画像はシンボリックな意味を持つことが多々ある。ウジムシが腐肉を這い回っていれば、それはそれなりの意味を持つ。リーマンの朝に、犬が吠える映像は、カリカチャでないとすれば別の意味を持つ。

見てしまった画像は、取り返しはつかない。人間の思考は、その画像によって作られていく。それがどのような結論をもたらすかは、その画像を見せた人間の責任である。

マスコミの人間に、ではその責任が取れるか、というと、BBCで見せる画像による損害は、イギリスの納税者が払いきれるものではない。珍妙なアジアの風習を日本として映像にされた場合は、見た人間がアイデンティティの一部を犠牲にして補償していかねばならない。

人が持つイメージというのは、独自なものである。それは、個人が存在することそのものの基をなす。イメージを自由に持たずに、独自の思考を発達させることはできない。ある現象に対する画像の作り方が同じであれば、それのもたらす結論を自由に導き出すことはできない。

現代社会における、集団の強さは、ある程度その画像を限定することによって成立しているといえる。