土曜日, 10月 29, 2005

フランスのこの景色を、目にするこのスペクタクルを、これからずっと憧れて、夢に見ていくだろう。探していたもの、その存在を理解したと言うべきである。町を離れ、山を登り、展開する、流れるように配置された家、太陽の光を受けて、ガラスが遠くで光っている。その先に広がる木々の緑、明るくひろがる草原、そして空に伸びていく森の木々とそのシルエット。広葉樹の葉が光を受けて、透明なその色を映し出す。完全な、そして本当の木の、森の存在とはこのようなものである。つまり、厚い腐葉土の濃い茶色の上に、ストレートに幹が伸びて、そしてはるか上のほうに葉が光を求めて手を差し伸べる。だから、森の中は光がさえぎられていて、木漏れ日は、密生する木々の葉の隙間を通して、いくつかの筋となって降り注ぐ。
目の前の道を下って、左に曲がると、温室のある通りに出る。温室では、キクが栽培されている。大型の、厚みのあるキク、スプレー咲きのキク、小型のキク。パンジー。シクラメン。ラン。… 左に曲がると、そこには川がある。ふと顔を上げると、山があり、山のすそには家がある。そのデザインのすばらしさ。すんだ川の水。水面に映る雲のあざやかさ。送電線のガイシまで光っている。土砂を運ぶ機械が、その繊細な構成が、今日は停止している。今日は日曜日である。


さらに山に向かって車を走らせると、「散歩用の道」がある。ここは、ちょっと信じがたいぐらいに、おだやかに波打つ丘の緑の芝生の向こうには、森林のパッチが、目を見張るほどに広がっている。太陽が木々を照らすと緑がさまざまな陰影を伴って、数え切れぬほどにその色彩を、あくまで贅沢に提示する。芝生のあちこちには、さまざまな花が咲いている。

丘を抜けて山を登ると、木々の間を走る道が、頂上まで続いている。木漏れ日の中を、車を駆っていく。森の開けた場所には小屋があって、そびえる木々が、光を受けて輝いている。かがやける日の光が、落ち葉に、紅葉に、針葉樹に、木の幹に反射して、澄んだその光があたりに満ちている。

日曜日, 10月 23, 2005

ポップカルチャーの、きわめて俗であるその理由は、金を稼げる「美術的視点」を褒め称える行為そのものに、まったく芸術的な観点での考察が見られないことにある。

伝統的価値観を押し付けているだけの誹謗中傷は、批判ではなく、毒でもない。人間性無視の全体主義というポピュリズムには、発展性も、実は持続性もありえない。

ボージュの美しい山並みの家と庭の広さが、各自確保されているのは、教育が行き届き、各自に富の蓄積があり、そして各コミューン単位の土地利用が効率的であることだと考えられる。個人の庭や家屋の手入れが、それぞれに美と生活を追求するものであるところが、この景観を作り上げている。

ゆるやかな傾斜の緑の丘に、牛がそこここで草をはんでいる。前足を折り曲げて座り込む牛。白い牛。柔らかな茶色の牛。ホルシュタイン。そこには、人間のように、ある一定の場所に、間隔を置いて、木が生えている。木々は完全な形をして、そして影を地面に映している。ときに、厚い雲が空を覆う。差し込む日の光。そしてやがて太陽が照り輝くと、その向こうの山の緑とこの地全体が輝く。山腹を行く道を、自動車が猛スピードで走り去っていく。自転車で、この地を走っていくサイクリストがいる。

道路の先には町がある。町には別の生活がある。政治があり、仕事があり、生活があり、人生の困難がある。さまざまな様相をした人々が、さまざまな心配事を抱えて、ときにごく上品な身なりをして、一人で、あるいは友人と語り合いながら、家族のメンバを連れて歩く。それぞれの町に、また違った傾向があり、その予算も、目指す方向も、そして意思決定機関も異なっている。Gerardmerは観光地である。スキー客による冬の観光がある。町の中心にメリーゴーランドがある。山を越えると、川のほとりに大々的にホテルがある。周辺の山々に家が建っている。そこからの眺めは美しい。Remiremontはもっと大きな都市である。商店街は工事中であった。この町の教会は、パリのルーブル宮殿の灰青色の屋根、ナポレオン聖堂を思わせるような白く輝く内装を持った大聖堂である。パイプオルガンの音律を調整していた。郊外にはLeclercがあって、低い屋根に青い文字で書いてある。

夕日がオレンジ色に家屋を照らし、その長い影が緑の牧草地に映っていく。レンガ色の屋根、白い壁が輝く。木々のシルエットが暗黒にのまれていく。高速道路をとばして帰路に着く。

フランスという国は、とても大きい。一人一人の生活を支え、その存在を肯定し、そして肯きながらただ問い続け、その連続した時代のあり方というものを提示していく。真実であることを、人間の存在を裏切らないことを、そしてあるがままであることを、はかない存在でありながら、そして全世界を作り出す人間の営みを、否定することなく受け止めることを、その約束を誓っている。

金曜日, 10月 21, 2005

ニュース報道のネタに、政治家を使うのは、よくない。改革は国民の(読者の)利益である。政治家がネタであっては、改革が進まない。彼らの方針が効果的なものでなければ、弾劾すべきである。

政教は混同すべきではない。政治はエンタメそのものでもない。そして、政治は集団意思に基づく。失策は、それを支持する人間すべての責任である。政党のリーダーは、その政策への義務と権利を持つ。

「思想体系」とは、もっと根本的なものであり、イメージ操作と同等とは限らない。フランスにおける、感覚への「いたわり」は、つまり、存在に対する包括的な思いいれである。

木曜日, 10月 20, 2005



何 も慈善事業でマイクロソフトが機能をつけているわけではない。政治家が慈善事業しているわけでもない。逆に言うと、フランスにおいて、これだけの伝統を持 ちながら、政教分離したということは、驚きに値する。どの都市にも教会、礼拝堂、聖堂があり、その建築は見事である。そして、非常に手入れが行き届いてい る。街の風景との調和は、世界中の何と比べても、そのものが美しい。線やテクスチャ、色彩の構成は、フランスの、「優しい」風景は、浸っていると、その感 覚に「褒美」をささげ、そしてウィンクしているようである。その存在さえ気づかなかったような、そんな感覚を、そもそも持ち合わせていた、ということが、 つまり感覚が生きている、生き残っていたということが歓喜をももたらす。朝起きて、そして窓の外を眺めることが、贅沢である。日が昇る。木々の緑が色づい ていく。木陰が芝生に影をつくる。山に霧がかかっている。誰がデザインしたのか、その構成は人為によるものであり、そして完全なものである。耽美的、官能 的であると同時に、理性のもたらす静かな諦観が、人間と社会のあり方を訴えている。

ほっておいても、下らぬことを象徴にして争うのが人の常である。

火曜日, 10月 18, 2005

フランスが、天国ではないことだけは確かである。何かを学びたいと思えば、こんなに不便な、そして偏見に満ちたところはないであろう。彼らを訓練するのには、相当の努力が必要であろう。まず、「本・ノートを持って歩くのは、格好悪くない」「議論するのは、外観を損ねない」「他人の評価に、そして見栄に頼ることは、精神的な安定をもたらさない」「科学は冗談ではない」などという、レベルの低い教育が必要である。

エリートしか教育を受けないというのは、エリート主義である。さらに、努力しなくとも、愛情さえあれば幸せになれるという類いのキャッチフレーズは、少なくとも社会的に利益をもたらさない。が、この社会がどう機能しているかは、知る由もない。実際にコネ社会で、相手の機嫌を取れるほうが、能力よりも重要視される社会である可能性もある。実際に機嫌を取ってみると、その困難は実は外見・性別・家族構成・国籍・人種・居住地域などの偏見への克服にある、などということもあるであろう。彼らの「恋愛」観は、彼らの、「なにも考えなかった」というワンパターンの決まり文句によく表れている。彼らは、それこそなにも考えずに、そのような台詞を繰り返して人生を送るのであろう。

金曜日, 10月 14, 2005

日本の教育制度を考えると、あせりにも似たもどかしさを覚える。

生徒に掃除をやらせるために、木製の椅子の下には針金が張ってあり、そこ には雑巾がかかっている。教室にはいくつか箒がおいてあるが、学校の備品は、制服は、地元商店とのなれあいで、落札が行われず、質の悪いものを、高額で買 わされる。市場原理が機能しないということは、恐ろしいことである。今現在でも、同じ制服、さらに同じ鞄を目にするなどということは、信じがたいが、自由 がない、競争がない、権限がどこにあるのか、それに対する要求を提出する場も聞かない。全国で同じ学年がいっせいに同じ楽器を演奏し、そして同じ植物を観察する。

そして、同じ知識を強制される。つまり、「ノルウェー」ときたら、「フィヨルド」と連想することを強制される。ノルウェーという問題に対し、カタカナ5文字で四角を埋める問題が出る。そうすると、「フィヨルド」と書かねばならない。

足して3となり、かけて2となる二つの整数を導き出すゲームは、二次関数の解を求める問題と名づけられているが、そのゲームで学生の進路を、数学という学問 を決める要素とするには、あまりにもばかげている。解の公式のある問題は、機械にかければ少なくとも近似値が → 自動的に算出される。

今 は、 地方分権が進んでおり、地域による特色もでてきているという。教育にかける金額も、地方によって異なる。とにかく、中央集権的な官僚制度では、やる気のあ る教師も、自由がきかず、小回りがきかず、現場の声を反映することは、事実上不可能である。まさか文部科学省までカリキュラムの改定を求めにいくことも難 しい。

教育費の7割は、人件費だという。日本の教育費は、GDP比にして、総額でよく語られているが、よく見てみると、学生一人当たりの 額は、非常に多い。文部科学省によると、「平成15年度の在学者一人当たり学校教育費は,小学校では91万円,中学校102万9千円,高等学校(全日制課 程)113万8千円である。最も多いのは,盲・聾・養護学校の913万5千円で,次いで,中等教育学校の322万7千円,高等専門学校の194万8千円の 順となっている。」在学者一人当たり学校教育費
この金額が、有効に活用されない理由は、硬直化した予算獲得形式であること、学校間の特色を生かした競争がないこと、市民による学校の会計の監査が機能していないこと、学校関係者の労働市場が開放されていないこと、などあげられる。

公立学校の児童・生徒一人当たり年間教育費の負担額(国と地方公共団体の負担合計額)*平成14年度
 小学生 ―――――― 858,000円
 中学生 ―――――― 938,000円
 高校生(全日制) ― 918,000円

Let's show off what we are! This is what we are! This is where we are! Here we are! ... We have come thus far ...

木曜日, 10月 13, 2005

もちろん、朝日新聞は模範的な記事を書く、プロの集団である。その気になれば、「正確な記事」を書くこともできれば、「客観的な記述」も書けるし、わかりやすい「日本語の、標準」を作ったという誇りを持つ彼らである。では、なぜ主観に走り、つまらぬ打算をし、受け入れられそうにもない、あるいはまったく論理的でないあおりを、あえて記述するのかというと、そのことが、(「個人的」な反発ぬきで)事実を書くという、人間を書くという、物書きとしての、プロとしての意識に反しても、それを補う、それ以上の動機があると考えられる(そんなものがあっていいのか)。

襲撃されたLu Banglie議員の記事は、世界中の新聞で書いているのに、いまだに日本の新聞に記載されていない。政治面から見た中国、中国の民主化運動の報道を阻んでいるのは、日本の記者クラブなのか、中国政府なのか。

日経新聞が、その打算に社の生命をかけているとすれば、その前提条件や論理の面で、議論が足りない、ということよりないが、集団が大きいということは、必ずしも効率や成果に結びつかない、ということはある。彼らの考えるこれからの新聞が、どのような形態をとるのかが、興味深いところではある。

I wonder what could limit the number of the Self Defense Force personnels going to Pakistan -- or are there enough help already?

The possibilities are: 1. not enough media coverage, because of the ideological reasons not to show off military personnels. 2. not enough interests among Japanese people in foreign affairs. 3. the cost, provided by bureaucrats in fixed amount for fixed purposes and they have never thought of its use.

All of the above?

There would be certain number of the military personnels who are willing to say 'we can do this and we know how to deal with the situation, we will show that to you, we are proudly serving the people in Pakistan'. Money has no color to it. I am only hoping they will be showing our help on TV and the news. The people in Pakistan will need something out of us, even if the US seems to be in charge.

All right. It must be something like "we are happy on whatever the government is doing but not completely satisfied since that should not happen -- democracy should never give us the correct answers" and what else? "The bureaucrats are doing the right things and we admire their effort (of doing nothing)". The politicians never talk on anything other than their jobs, namely, to get elected -- never a word on their policies, let alone their philosophy (maybe except for our Prime Minister). Glory be to those who aim high -- to those in charge. Don't interfere with the life of an individual for Christ sake, and please do interfere with the public affairs.

義務を負う人間は、権利をも持つ。責任を負う人間が、すべての栄誉を手にする。

水曜日, 10月 12, 2005

思考や感覚は、個人のものである。そして、その思考には、人種偏見、性差別、その他の要素が大きく作用する。つまり、理解には、その立場に立つ、という想像力がいる。配給制度がどんなものであるかは、日本でも知っている人間は、多いはずであるが、北朝鮮の配給制度について、監視もつけずに独裁政権下ではうまく機能するはずがない、ということを理解するには、人種偏見・政治制度による偏見を乗り越えなければならない。

韓国、増える北支援 米との亀裂、鮮明に

火曜日, 10月 11, 2005

China activist survives beating
Chinese activist vows to continue, despite beating
The Importance of The Taishi Elections
Merkel to become German chancellor

"Merkel gewinnt Kampf ums Kanzleramt"

Frankreichs Außenminister Philippe Douste-Blazy äußerte sich --
"erfreut, daß Deutschland aus der Periode der Unsicherheit"
"Frankreich ist der engste Partner Deutschlands, und es gibt keinen Aufbau Europas ohne die perfekte Zusammenarbeit von Frankreich und Deutschland."
"davon überzeugt, daß Angela Merkel in die Fußstapfen der Bundeskanzler treten wird, die ihr vorangegangen sind".

-DieWelt

ドイツ連邦議会、メルケル氏を新首相に選出

月曜日, 10月 10, 2005

BBCによると、英国ガーディアン紙の記者Benjamin Joffe-Walt氏は中国広東省南部太石村において中国人議員Lu Banglie氏が襲撃されるのを目撃したという。「警官や軍人を含む50人以上もの人間が、Lu氏を車から運び出し、意識を失った後も10分間ほど殴 り・蹴り続けた。Lu氏は、土地買収に関する汚職が疑われている中国広東省南部太石村の長に反対していた。襲撃の後、Lu氏の消息はわかっていない。記者 はその場から強制的に立ち去ることを要求された。今月はじめには、弁護士Guo Feixiong氏が逮捕されている。外国人記者が、襲撃されたという。」

A Chinese political activist is missing after having been severely beaten as he tried to enter a village at the centre of a corruption dispute.
Chinese village reflects rising tide of discontent
What exactly do they mean by the 'stable government' in Germany? And if the present administration can not get much percentage of the votes, it means Merkel should go forward. ...

Things are supposed to be remain the same and they do for some decades in Germany. So is their sense of humor on whatever happens to their daily lives including eating, clothing, and human relationships. Their prejudice on sexual discrimination is mixed with something of the reminiscent of their totalitarian state. The naked photos of female figures on their publication is horrifying, with sexy female voice of the annoucements. Along with their Goddess-ly female statues of long hair with or without dependents, and this is still what Germany is. 'Human for production' should be the slogan. And that slogan is fixed in their head for some 30 years ago. Think of an ideal socialist state. That's what the town of Frankfurt is. Apartments for workers and all public transportation is provided and ready to serve all commuters. There are no decoration nor creation on the part of residents at that particular corner of the city. It may be because of their finantial status but rather due to their lack of the support from the social state to exercise their freedom.

Who would ever think of the bare concrete walls and people walking empty handed, riding bicycles, on Sunday and so timidly proclaiming their existence, in Germany? The truth is elsewhere -- driving a BMW, Volkswagen, and Mercedes-Benz on autobahns, all alone (or with dependents) at 150 km or more.

日曜日, 10月 09, 2005

フランスが大国であることに間違いはないが、そのことが、今現在、エンタメがハリウッドに傾斜していること、そして人々の意識が硬直化していること、つまり均一化社会・既得権社会の弊害が顕著であること、そのことに歯止めがかかるわけではない。

な ぜならば均一化された「大衆」には、個人の概念はない。極めて個人的な問題に、「社会のため」に倫理を強制す るのは、いわば宗教である。ことに、「外国の文化」に対する、価値観の多様性に関する無理解は顕著である。手っ取り早くいえば、典型的な理想像が、ごくつ まらない、醜いものだという意識がありうると いう認識がない。つまり客観性がない、大人の認識がない。

なりゆきでしか生きていない人間 には、何かを人生で決定した、という意識がない。住む場所から、職業、仕事からサービス、そして価値観にいたるまで、個人としての意識がない。想像力の欠 如は、客観をもたらさない。精神的な論理性をもたないために、親や知人と同じ家族形態を持つことが、彼らの精神構造を支えている。

文化の停滞は、保守化は、個人の自由を奪う、ということがいえる。

... Such a struggle of life, to be small faced long streaming hair of a damsel of fine skin. And those features are not to attract the attention of male counterparts and their only interests are in the prospects that they will pay, in money and in the legal status.

The supermarkets, the DVD/CD, etc, -- there is not much left that reminds me of anything related to what they have created at the turn of the last century. You can get the whole series of Disney films and even Ghibri ones. What of Dragon Ball and such? Biwitched? Love Boat? Dallas? Captain Tsubasa?! What exactly do they see in those foreign films? The vitality? Diligence? The virtue of teamwork? What of intelligence and work ethics? What are those films without them?

In that sense, the reality is far more than what they show us in those dramas. Beauty is not the products of machine-made picturesque scenery that satisfy some ready-made standards. Human activity and the freedom, the expression of it itself is what we regard as an art, that we long for.

"Au-dessus de la forêt vosgienne s'étendent les «chaumes», ou hauts pâturages, que la neige recouvre l'hiver. Au printemps, ces vastes pelouses, faites d'une herbe feutrée, sont parsemées de pensées alpestres et de touffes de myrtilles.

Si l'on en croit certains documents, ces chaumes, ainsi que la forêt qui les encercle, étaient encore vers le 10e s. le refuge des bisons, des aurochs et des élans. Au 16e s., une race de chevaux sauvages y persistait encore.

De nos jours, les chaumes sont devenus, en hiver, d'excellents terrains de ski, en été, le domaine de la vie pastorale. De juin à l'automne, de grands troupeaux y font tinter joyeusement leurs clochettes, contribuant à l'agrément et au pittoresque du paysage. Ils sont la source d'une importante industrie fromagère."
--Michelin

土曜日, 10月 01, 2005

科学における論理は、つねに単純明快である。「キャッシュを大きくすると、ヒット率が上がる」という論理にせよ、「ソートしたものを、先にしまっておくと早くなる」という論理にせよ、「リストは、探すのに時間がかかる」という論理にせよ、まさに、その論理が単純明快で、誰にも理解できるからこそ普及した概念である。ここで、キャッシュが現金のことではなく、ソートは並べ替えることで、リストは名前ではないというような前提は、はっきり提示しておかねば、キャッシュをどう分割するとか、ソート結果をどこにしまうとか、リストにインデックスをつけるとかいう議論にすることはできない。

パイプラインで言えば、「パイプラインのステージが短ければ、ステージ数を多くできる」という論理である。インテルのステージは短くてステージ数が多く、AMDのステージは長くてステージ数が少ない。このパイプラインの「理論」が、理論であるためには、その世界を提示し、その前提の上で、議論を重ねなければならない。十分な量の説明と、その意味を教授し、ようやっとその世界を美しく表示することができる
If Toyota has factories in China,... what more to be added to this fact? We are all brothers (and sisters) and must produce like hell.

Why do they 'assume' foreign investments would be unfair? They should make a law instead of excluding companies by their origin. What do they think Toyota is doing in the States? They have the major campaign on how it is serving US people by creating factories thus employments.

一国平和主義の弊害は、中国における、共産党政府の、(日本の)企業による、人権侵害を語らないことにある。国際的な問題について、慎重である、ということは、なるべく考えないようにする、政治問題として語らない、ということとは異なる。

軍事演習を繰り返し、示威行動に奔走している中国共産党政府そのものが、北朝鮮政府が、なぜかあの制度でその核の脅威を保持できる原因であるといえる。

「人権無視の日本企業」から、少なくともメディアは、独立した存在であるべきである。

最大の貿易相手国に切り札もなく弱気の外交を行うなどばかげている。その意味でも、民主化、自由経済という国際世論を味方につけ、議論・交渉を行うべきである。その際に、日本遺族会(シンパ) と 中国共産党(に金で結びついている人々)の宗教(的)な活動は、政治的活動の一部、そして、マスコミ対策以外の意味があるとは考えにくい。そして、もしマスコミ対策であった場合、選挙民としては「ふざけるな」としか言いようがない。宗教的に意味があれば、違憲である。政治的活動だとすると、参拝反対派を中国シンパと呼ぶとか、中国の人権問題を、神道イズム・天皇制と関連付けることは、一時的には効果的であっても、持続性・発展性のある大義とはなりえない。もちろん、まったく関係がないからである。天皇制を信じていない一般の日本人にとっては、日本らしさを神社参拝で示すのはおよそ意味のない行動である。派閥間闘争であるとすると、遺族会、中国共産党政府に組する連中に反対するという別の立場があるはずである。

北朝鮮の脅威がなくなることの意味は大きい。東アジア全体の株価が上がることはもちろん(そのニュースだけで株価が上昇した)、北朝鮮、韓国の生活程度の向上、民主化、そして中国の民主化につながる。兵役義務は、人材の無駄であるのみならず、犯罪と、新兵いじめ、軍事裁判に見られる人権侵害の温床である。

もし、それが、日本の功績となれば、日本の国際的地位が確保され、平和的、民主主義国家としての信用度が上がることによる、経済的、政治的メリットは大きい。