日曜日, 5月 30, 2004

「理解されない悲劇」は、常に存在するが、その悲劇を恐喝に使った時点で、悲劇が、悲劇としての意味をなさなくなる。なぜならば、「理解されたい」という前提がある、という仮定が成立しなくなるからである。

土曜日, 5月 29, 2004

一方的な関係は、いわゆる「片思い」である。一方的な関係を強制することを、「セクハラ」という。一方的な関係を、ドラマにすると「性差別」となり、一方的な関係は「滑稽」であったり、「コミカル」であったり、「欺瞞」である以前に、社会の本質的な不平等を物語る。一方的な関係に、「らしさ」を強制することを、「カルト的信仰」と言い、これも「くだらない」「ばかばかしい」以前に、社会的立場の不平等を物語る。一方的な関係を示唆することは、「理解されない不幸」「尊厳の破壊」を嘆く以前に、弱い社会的立場を痛感せねばならない。

金曜日, 5月 28, 2004

「売れる技術を持つ」ということは、「伝統的で、社会的に抵抗のない、単純労働に専念する」こととは異なる。もちろん、社会的に認められねば「売れる」技術とはならない。しかし、それは単純労働に甘んじる人間を美化するものではない。誰でもできる労働を、さまざまな特権を利用した報酬を得ることで、「自分にはここにいる権利があるが、他人からなぜかその権利を剥奪することができる」という、いわゆるムラ社会を形成することは、よいことではない。
「義務」「必要」をつくりあげて、それを押し付けることは、それなりの根拠がいる。それが、伝統、つまり「親の生活」であった場合、それに対する反論は、当然、「私ならそのような生活はしない」であり、「義務ではない」、「必要ではない」である。特に女性の、義務でも、必要でもない伝統的な単純労働作業、そしてその価値観が、馴れ合い社会に都合がよい、ということは、「義務」や「必要」を導いたりしない。

木曜日, 5月 27, 2004

フィクションは、虚構として書かれているとき、もっとも質が低い。「読者をばかにしている」ともいう。もちろん、作家は、卑下することにより、読者の賛同を得ようとするが、馴れ合いが前提であれば、それ以外の人間には「おもしろい」はずがない。

シットコムなど、そのようなドラマにおいて、伝統的な役割、しかも男性にこびへつらう女性が、生活上の、苦難ともいえない、くだらぬ悩みを、なぜか解決する糸口として、やはりくだらぬ男性を巻き込み、最後は、やはり伝統的な生活を送るアホが世の中を制覇する、というパターンは、稼ぐ能力を得ようとする努力を知らぬげに、女性に対する固定観念は、働く女性の足を引っ張る以外の意味をもたない。