土曜日, 9月 03, 2005

「韓国との歴史共同研究なんて、ぜんぜんだめ」「一次資料もっていっても、民族感情にあわなければ捏造」「しかも実際に資料を捏造してる」「1500年間統治したという、檀君なる統治者に、なんらかの事実の裏づけがあるとか言ってるし」「あれは、元がせめてきたとき、民族の統一のためにつくられたおとぎばなし」「一事が万事これだから」「高句麗は、中国では韓民族じゃない」「高句麗の支配層の血縁と名乗る人間が、高麗を支配しただけ」「広開土王の碑も、日本軍が作ったとかいう説が、まことしやかに語られてるだけでなくって」「歴史研究者でこれだから」「はなしになんない」

国際問題を、宗教論争にするのは、韓国でそうであるように、いわゆる「人気取り」である。そのような問題提起に、「反日運動」で盛り上がる集団にも問題があるが、最大の貿易相手国に強気の姿勢を演技することを、しかも相手国の政治闘争を利用して、その演技に抗議なしに、支持率を上げようというやり方には、度重なるデモ活動、領土問題、なおざりにされる歴史学など、弊害が多い。そして、韓国国民が話題とするのは、歴史問題に絡められた竹島領土問題である、という報道をマスコミが馴れ合って伏せているという構図は、ネットによって改善されると予測される。なぜならば、韓国のサイトにアクセスできるからである。

凱旋軍の行進は感動的なものである。人々のほっとしたような、喜びに満ちた表情は、それで真実である。クウェートにアメリカ軍がやってきたとき。パリが開放されたとき。反日デモが強烈な印象を人々に与えるのと同じように、パレードの果たす役割は大きい。しかし、それはもちろん、ドイツ軍のパレードや、ロシア軍の勝利宣言と本質的に異なったものはない。そこで、ガス室帰りの人間が晴れやかな顔をしている場合、あるいはその映像に見入る人間に「共感」を強制された場合には、そんなことで問題を解決するな、という意見しか持ちようがない。

日本人は、実は、本当は、戦争に反対していた、という神話が、いまでもある。もちろん、これは政治に信用がないことの裏返しであるが、同様に、実は、天皇は平和愛好家であった、という神話もある。問題は、そのどちらも政治的にものを語っていないことにある。天皇が実は何を考えていたか、という判断は、むしろ、神ならぬ人間は行ってはならないし、さらにその結論を導き出すことも難しい。天皇に、どれだけの政治勢力があり、何を発言し、どのような結果をもたらしたかを議論すべきである。

小泉首相がどのような立場にいて、実は何を考えていたか、ということは、やはり政治的に語るべきである。郵政法案に賛成票を投じる代わりに、退陣することを要求した議員グループがあったという。白紙委任状を要求するこのような取引には、犠牲を強いることに精神主義的な利点を見る姿勢である可能性もある。帝国日本であれ、イスラム共同体であれ、ソビエト連邦であれ、キリスト教原理主義であれ、犠牲、そして犠牲になった人間を英雄にすることは、少なくとも人道的ではない。