水曜日, 11月 09, 2005


人間としての存在は、つまりデモやスト、文章によって、音楽によって、またその他の方法で「表現する」ということによって確立される。

ちょっと行ったところに橋があって、青く塗ってあるということが、ラベルの音楽を聴いて理解できる、ということもある。まっすぐ続くプロムナードからの眺めがよくて、日曜日に川岸で管楽器を弾いている人間がいる。植物の種が風に乗って飛んでくる。カモメが飛ぶ。遊覧船が行き来する。オフィスがガラスでできていて輝いている。

ラベルの曲を聴いて理解できる事柄もある。その極限までに張り詰めた繊細な流れに思考をゆだねることが、輝かしい光をより強烈に、そして生きることそのものを謳いあげている。さまざまに音調を変えていくその流れは、ひたむきであっても追い詰めることがない。そして、悲しみと憎しみ、そして絶望を、栄光を、なによりも静けさを、精神の落ち着きを語っている。

コンチェルトとポロネーズを続けて聴くと、社会の残酷さを考えずにはいられない。それは、異邦人とペストを続けて読むようなものである。希望と自由を謳っていた人間が、絶望にいたるまでのドラマは、倫理・論理に裏づけのない人間に悲劇である。もっとも、そんなものがあると悟りとか諦めを述べるようになるだけである。

もちろん、事態が好転するというのは、希望的観測そのものである。絶望の中を、つかの間の平静を頼みに生きていく。増え続ける雑用と、汚い他人の強欲に耐えながら世を渡っていく。

It's a complete mystery how we use language -- right?