もちろん、日本人の功績を、「腐った大豆と、生魚食べて、がんばったんです」と訴える方法もあるが、日本人であることをことさらに書き立てれば、やはり、偏見を助長することとなる。ここは、同じ土俵に立ち、何を食べているかにかかわりなく、「(日本人である)研究者が貢献した」と書くべきである。
「どうしても日本人的であって、腐った大豆を好むのは仕方がない」、ということは、少なくとも強調すべきではない。「腐った大豆を好む集団が、日本にはちゃんとある」、ということは、このさい偏見をなくすことにはならない。強調する際に、どうしても付随する蔑視を悟らないようでは「無神経」である。腐った大豆は、食べない人間にとっては、醤油ではなく、あくまで腐った大豆である。
同じ意味で、性別を強調することは、偏見を助長することでしかない。「女性が」「男性が」と書けば、それは閉ざされた社会の「好奇な目」しか意味しない。要するに、「トヨタの男性社長、人員削減」と書けば、「え、男性が?」という反応を誘導することになる。それは、日本の大企業のトップに女性が少ない、ということを強調することではあっても、削減されたことによる経済効果を語るには、不適切である。