木曜日, 2月 03, 2005

タブロイド記事は、つまり建設的でない。タブロイド記事とは、「コンピュータの前で困った天皇」の類いであるが、その記事を読んだ人間が、社会問題を考えるわけではない、ということは、実証済みである(地下鉄のエピソードがそれである)。

個人崇拝は、非民主的である。そもそも、他人にその個人崇拝を強制することは、信仰の強制に近い。雰囲気でそれとなく強制させたい教師がいれば、その雰囲気を作るのに、いくらかかったか、どれだけの人件費がかかったか、考えるべきである。