日曜日, 6月 27, 2004

ひとのこころのたのみがたきを知らしめ、やる気を損なうのが日本式経営である。そのやる気のなくなった状態に、さらにばかげた文句を聞かせて、そのくだらなさをたたきこむことによって、思考を停止し、どうでもよくなった状態で、さらに能力のない人間の嗜好回路を理解させると、日本式謙虚さが身につく。その腰の低くなったところで、ようやっと日本的対人関係を成立させる。ちょうど、アメリカで言う「よい教育」の逆を行うのだと考えればよい。差別待遇によってその効果は倍増する。
「女性の夢になら口をだせる」という、まったく悲惨な男性社会が存在する。

水曜日, 6月 23, 2004

「女性がバカでないと苦労する」「ヒラがバカでないと苦労する」「若者がバカでないと苦労する」という、誤解がある。バカがよいはずがない。利害関係を考えていない。周りと違っていても、やはり、賢いほうが、生きやすい。
議論のレベルといえば、「らしさ」を決めつける人間の、議論にもならない、低レベルな宗教論争がある。「英語が、コンピュータがわからない、女性」などという統計から、「わからない女性」を「らしい」とするのは、納得がいかない。なぜならば、女性であり、英語も使えれば、コンピュータを使える人間もいるからである。「できる」ことで、「女性らしくない」ことが引け目になるようでは、「できる」人間が浮かばれない。「女性の役割は違う」「ローテクを丁寧に作ってろ」「男女で分業」などという、宗教論争は意味がない。
要するに、ケータイや、デジカメ、クルマなど日本製品は、男性集団がデザインしたものだ、その「裏」には、女性が束で犠牲になっている、という事実は、女性管理職1%という統計に表れている。

火曜日, 6月 08, 2004

世界が広ければ、さまざまな意見が出てくるが、流動性のない社会では、発想が限られる。馴れ合いに同意しない人間にしか、建設的批判はできない。だから、大学においても、「この税金泥棒が、マイナー言語教え込んで、使えない技術をどうするんだ」とか「学生を犠牲にしてなにが面白い」など、いう意見がでてこないのは、ひとえに伝統のせいである。
「実社会」「会社の論理」「大学院は社会だ」などという、くだらぬ言い訳が、レベルの低さを隠蔽するものではない。レベルが低く、目的意識が少ないために、性差別が横行しているだけのことである。論文を書くことが、実際上の大学院の目標であれば、セクハラ、などというプロットがそもそもありえない。そんなプロットで論文数が増えるわけではないからである。世界レベルでの競争であれば、いやらしい上司のねちねちした嫌がらせなどということがありえない。そんなことで製品の質が向上するわけではないからである。大学院のレベル向上が、社会全体の目標であれば、くだらないハラスメントなどということがありえない。そんなことで大学院のレベルが向上するわけではないからである。

土曜日, 6月 05, 2004

野心を持つだけで、迫害があるような環境は、健全な競争のない社会だといえる。

金曜日, 6月 04, 2004

低俗さがウリの、「大衆」の意見など、胡散臭くて話にならない。すべては権力闘争である。低俗なジョークをとばす大学教授のねらいは、いやらしい男性の存在の誇示であるよりも、大衆受けであるよりも、その低俗さで、権力の誇示である。陳腐なジョークを、まじめな風で忠告する同僚は、その浅はかさで、権力の誇示である。ねらいは、同族意識であるよりも、影響力の誇示である。

木曜日, 6月 03, 2004

とにかく、コンピュータの使えない日本人というイメージを打破せねばならない。それと同時に、プログラミングには、知能が必要だ、という常識を打ち立てねばならない。コンピュータに対する、マスコミなどの滑稽あるいは奇妙なイメージは、プログラミングのできない人間のつくりだしたものであり、権威となっている人間の、あるいはその勢力を借りた、「低レベル」なものである。

個人は、個人である。集団リンチは、個人の存在をつぶす。

水曜日, 6月 02, 2004

見ている側の感想を、集団の権力を利用などして、個人に強制してはならない。「挑発的な服装」「挑発的な行動」「挑発的な言動」「挑発的な社会的地位」は、痴漢行為を正当化しない。
彼らは、「下卑た連中だ」というのが、第一の印象であった。下劣な人間が、卑劣な手段を使って、低俗極まりない生き方を強制する。個人の性別や、その個人をめぐる環境、立場を言い訳として、さまざまな嫌がらせを、大多数の論理で強制する「政治的」な戦略は、個人のあり方を否定し、その一生をつぶす以外の効果はありえない。