挑発に過剰反応するのは、「大人げない」という意見がある。
挑発と言っても単に自らの意見を表明し、論理的破綻を本音と称して取り繕う「感情的発言」であることも多い。
ことに、都合のいい時だけ本音トークと言い出す。何をホンネと思うのか。そうだろ、やっぱり!と思ったときだけ、おお、ホンネだとカンドーする連中につける薬はないが、本音を定義するとすれば、建前とは違う概念ということであろう。
建前とはつまり社会性のために犠牲にする、「言いたいこと」であるとすれば、社会性を犠牲にした言動が本音である。社会性が、特定あるいは不特定多数の反応への配慮とすれば、大胆にそのあたりを無視することが本音となる。配慮、配慮とうるさい日本社会で、配慮を無視することがカタルシスとなっているとすれば、他人の感受性を犠牲にする言動には結果が伴うことを意識すべきであろう。
どのような種類の人間の感受性をもっとも意識するのか。もちろん、評価する相手の感受性を気に掛けないはずはない。その定義が個人のあり方を定めるというべきである。
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