日曜日, 5月 30, 2004

「理解されない悲劇」は、常に存在するが、その悲劇を恐喝に使った時点で、悲劇が、悲劇としての意味をなさなくなる。なぜならば、「理解されたい」という前提がある、という仮定が成立しなくなるからである。